さいたま市北区 ピアノ教室講師紹介

幼少の頃 

埼玉生まれ。

運送業を営む両親のもとで育つ。

4歳離れた兄がいる。

ピアノは4歳から。

自営業をしていた母が、幼稚園のピアノ教室に送り迎えできないので、家に出張レッスンを頼んでいた。

先生は当時上野音大の大学生でとてもやさしい感じだった。どんどん進んでしまい、手がまだ小さいから次の本に入るの待ってといわれた記憶がある。

兄の男友達の中に一人混じって遊び、木に登って秘密基地作ったり、動物大好きで野良犬を手名付けて、口笛で呼び寄せたりしていた。

おてんばな女の子。

 

小学生 

なぜかアコーディオンも習い始め、2・3年生のころその先生にピアノも教わる。

中学校の音楽教師の男の先生だった。

声楽を専攻された先生だったので、細かいピアノの奏法というよりは、音楽的なこと優先のレッスンだったような気がする。

5・6年のころ音楽の時間は先生に頼まれて、先生が来るまでピアノを弾いてみんなに歌わせてたりした。6年生の運動会で、鼓笛隊の花形総指揮者を務める。

5年生で身長160cm近くなっていたので、その時の担任の女の先生に「でかいばかりで能がない」的なことを(今思うとひどい!!)いつも背の大きな女の子と一緒に言われていた覚えがある。

父は、ストレスからか、家族に厳しくすることがあった。

私は可愛がられた方だと思うが、お酒が元でのトラブルもあり、思春期の頃には悩んだりもした。

 

中学生

偶然入った吹奏楽部が大好きに。

当時20万はしたヤマハのホルンを買ってもらい、二年の時には副部長を務めた。

コンクールの2日前、指を怪我して3針くらい縫い、グルグル巻きの包帯で出場したのもいい思い出。

文化祭では吹部をバックにピアノコンチェルト的なものもやらせてもらった。

学級委員などもやったが、一年の時同級生女子二人組からいじめにあう。

 

いじめ

いじめにあい、クラス替えの約1年間続いた。

理不尽なことをいろいろされた。

見かねた担任の先生が仲裁に入ってくれたが効果がなく。

母は心配して、外掃除の時など、電柱の影からよく様子を見にきていたらしい。

母が支えになってくれたのは感謝だった。

大好きな吹奏楽部があったのも助けになった。

クラス替えを気にそれはなくなりホットした。

 

父の死

二年生の終業式の日、脳出血で父が亡くなる。

突然のことでショックだった。

前出のピアノの先生が、教え子のつてでお墓の世話などを親身になってしてくださった。

音楽と英語と美術は好きだったけど、体育は苦手で、マラソン大会が大嫌いだったので、当日苦しいのは嫌だから、一か月くらい前から朝5:30頃毎朝走った。

ピアノはずっと好きで続けていて、音高の話も出たけど、なるべく普通教育を長くというピアノの先生のアドバイスで、県で一番の女子公立高校に落ち、私立女子校に進む。

学費が高い高校だったが、女手一つで働いて、何も言わず進ませてくれた母に、また感謝。

 

学生

高校に入ってから桐朋のピアノ科を出た先生に変わる。

美術部だったけど、毎日放課後は音楽室で合唱部の伴奏をしていた。

大好きな化学の先生がいて、質問するために苦手な化学を猛勉強(笑)。A゜を取った!

文化祭では有志のピアノ演奏やミュージカルの伴奏、カトリック系だったのでクリスマスにはハレルヤコーラスの伴奏、合唱コンクールでの審査員などもさせてもらった。

冬の朝、高校の最寄駅の前に子犬が震えていて、どうしても見過ごせず、1日高校の化学室で預かってもらって電車に乗せて連れて帰ってきた。

相変わらずの動物好き。

高校には吹奏楽部がなく、ホルンを続けたかったので市民のアマチュアオーケストラに所属していた。(そこでトランペットを吹いていた現主人と出会う)

大学受験は音大と決めて、高3の時ピアノを国立音楽大学の先生に変わる。

土曜日には、授業が終わると、都内へ出てピアノ・声楽・楽典とレッスンのはしご。

受験期一番練習したのは、一日8時間。

食べて寝ること以外は、ピアノを弾いて、休んで、みたいな生活。

 

指が!!

本番前、まさかのトラブル

この頃には異常なストレス下に置かれていたと思う。

試験まで一か月を切っていたある日。

昼は近くの恩師のグランドピアノを借りて猛練習。(うちはアップライトだったので)

夜勉強してペンを握っていると、右手中指の中でプチって何かが切れた音がした。

みるみる指の根元が紫になって膨らんできた。

びっくりして私の顔も真っ青に。

指が、指が〜

試験が受けられない??

どうなっちゃうの?

翌日、病院でも毛細血管が切れたのではと言われたが、処置のしようがなく、湿布だけで帰された。

不安な日々、、、が、なんとか復活。

様子を見ながら猛練習に戻っていく。

 

本番失敗!

晴れて迎えられた受験当日、ピアノの実技。

課題曲の一つであるベートーヴェンのソナタ、テンペストの第一楽章の冒頭でミスる!!!

「あ、もうだめかも、、、」

(小指が滑っても落ちるのよ、という音大から来ていた教育実習生の言葉を思い出す)

とショックを受けながらも、ど根性を出して最後まで弾き切った。

あの時、めげて演奏できなかったら違う人生になってただろうなぁ。。。

長年のピアノの練習で培われた集中力と、あきらめない精神力のおかげ!?

無事国立音大器楽学科ピアノ専攻に入学。

片道二時間。まったく友達と遊ばず、ひたすら往復の日々。

もっと遊べば良かったなぁ。。。

 

ピアノ講師になる

ヤマハ音楽教室講師、出張教室レッスン、個人出張レッスン、自宅レッスンをする。

この頃は、クラシック中心のレッスン。

オケで知り合った主人と、音大卒業後約一年で結婚。

実家で母と同居。

20代で長男、次男、三男を出産。

ピアノ教室は、総勢20名ほど教えていた。

読売文化センターのカルチャースクールで、キーボードのグループレッスンも受け持っていた。

コンサートでは、グループ最優秀を受賞。

 

大変な子育て

長男出産後、母に見てもらいながら3か月くらいで自宅レッスン再開。

(外は出産前に全部やめていた)

長男は体が弱く、一歳二か月と三歳で2度の入院。

付き添いベッドで過ごしたつらい日々は忘れられない。

夜泣き、極度の医者嫌い、虚弱体質、、中学になるくらいまでは何かと大変だった。

次男はケガで救急病院ばかり。

小1の時は頭を打って、顔中血だらけで帰ってきて、能の検査にいったこともある。

三男は幼稚園の入園式拒否から始まり、小学校低学年まで学校関係で手がかかった。

しかし、男の子3人ながら一度も学校から呼び出されることもなく、ひたすらご飯を作っていた記憶はあるものの、家庭でも兄弟げんかの記憶がほぼない。

あまりにも忙しくて、覚えてないだけかなぁ(笑)

 

ジャズとの出会い

ジャズギタリスト、道下和彦氏の演奏を偶然目にしたことが、私の人生を変えた。

その数年後、3人の子育てをしながら、洗足学園音楽大学ジャズ科を一般受験する。

しかしそれには、その年の2月に39歳でがんで亡くなった、主人の弟さんの最期を身近で見ていて、好きなことやって生きようという思いが強くあった。

結果は、補欠合格で定員割れ。

次の年、ジャズ科が2年から4年制になる年に再受験して、合格。(社会人学科などではなく、普通に一般の学部生)

そこから主人の猛反対を受け、3日間泣き通した末、2000年4月めでたく入学。

18歳の現役学生と一緒に、ママ大学生に。

子供たちは小学生〜中学生

 

両立

ピアノ教室も続行。

最寄り駅まで、朝は自転車の後ろにゴミ袋を積み、帰りはスーパーによって買い物した袋を積み、いつも疾走。

家に着いた瞬間に生徒が来る。

忙しい毎日だった。

よく頑張ったなぁ。

しかし、念願かなって入ったジャズ科も、早5月頃登校拒否になりかける。

なぜなら、、、全然弾けない!!!

指は動くし、譜面は読めるけど、どうしたいの?どう弾きたいの?と先生に言われても答えがない。

今までどれだけピアノで(音楽で)遊んでこなかったかを思い知らされる。

それと共にクラシックの世界を側面から見ることができ、人生観が広がった!

表現すること、それへのアプローチの仕方の違い、文化の違い、関わってる人の生き方。

奥深いなぁ、音楽って面白いなぁ!!

 

ピアノで遊ぶ?

4年間、綱渡りのように学費を払い続けて往復4時間通って卒業したけど、思い切って飛び込んで本当に良かった。

その時のエピソードはいろいろあるけど、経験は宝。家族にも感謝。

 

この子は違う!

ジャズ科を卒業。

徐々に、夜のLIVEに顔だしたり、弾かせてもらったりし始めると、私の新しい活動に家族の理解を得るのがなかなか大変。

しかし、ここで諦めるわけにはいかない。

果敢に挑戦し続けた結果、活動は続く。

ある時、小一の男の子がレッスンに来る。

バイエルを弾いてくれたのだが、、この子は違う!と思った。

自由な表現、そしてピアノの前に座ると即興的に何かを弾き出す。

その後バッハを弾いても、自分で音を足したり引いたり。

結果彼は途中からジャズのレッスンにきり変えたが、コンクールを受けるまでクラシックをやったので、基礎がバッチリ。

私はクラシックもジャズもやって来たので、その人に合ったものを、合ったタイミングでやることが大切と思う。

ただ、将来何をやるにしても、やはり基礎を積んでおくことは、自由になるために大事。

 

生徒さんに囲まれて

そうそう、レッスンでこんなこともあった。

小学校低学年の女の子。

ピアノの前に座ったらいきなり泣き出した。

「どうしたの?〇〇ちゃん」

お母さんとのことが原因だったけど、その日は弾ける状態ではなかったので、とにかく話を聞いてあげた。

いろんな事情があって、学校休んだけどレッスンには来たよ、という子もいたり。

私の生徒さんは、子供も大人も、レッスンだけではなくいろんなことを話してくれる。

私もそれが嬉しいし、音楽やレッスンに来ることが気持ちの支えになったり、元気の素になってくれたら本当に嬉しい。

人生相談もあるピアノレッスン!?

 

人生相談

中学高校くらいになると、よくバンドを組んだりするけど、何をやるにしても基礎があると世界が広がる。

ピアノをこれからというお子さんには、とにかく基礎を身に付けることをお勧め。

またすでに基礎をお持ちのかたでジャズに興味がある方は、コードの勉強、アドリブについて少しでもやってみると、知らなかった世界に触れられる。

それも何歳からでも!

私自身、オリジナルでCDを2枚出しているので、自分の曲を作りたいという方も応援。

先日もオリジナル曲を持って、レッスンに来た方がいた。

 

夢を応援

ドレミが読めなくても大丈夫! 

鍵盤の位置が分からなくても大丈夫!

あなたの夢を応援するピアノ教室です。

ピアノという楽器は、1人で完結もできるし、アンサンブルもできる。

その魅力は計り知れない。

私は、ピアノを通じてその人が自分の世界を広げるお手伝いをしたい。

いろんなことがあったけど、考えると、いつもピアノや音楽がそばにあった。

吹奏楽での楽器体験や、音大に行って、しっかりとした音楽教育を受けたこともだが、ジャズに出会ってまた世界が広がった。

小さい生徒さんから大人の方まで、音楽がその人の豊かな人生に、少しでも役に立ったら嬉しいなと思う。

私自身が、たくさん支えられてきたように。

 

演奏活動

1998年埼玉県文化振興課アーティストボランティアバンク登録

障がい者・高齢者施設や病院等で演奏を始める。(数年前に解除)

重度の障がい者支援事業所を運営していたNPO法人マザーズの理事の経験もあり、2009年有志団体トライフル設立。

2010年より「障がいのある人と共に楽しむトライフルコンサート」をほぼ毎年開催。

今年6月第10回記念の予定だったがコロナウィルスの影響で延期。

2004年~2018年まで外のピアノ教室の講師も務める。

2009年自主製作でオリジナル曲のソロピアノのCDをリリース。

2017年コンテンポラリーポップスバンド賛美音結成。

東京を中心に、東北・関西・北海道へツアーを行い、CDを3枚リリース。

 

牧田清美演奏YouTubeチャンネル

https://www.youtube.com/channel/UCNpN2nhtmHAZReUSG7Esg0A

東京都のアーティスト支援企画「アートにエールを!」のために書いた作品。採択され、8/27に公開されました。